完璧主義を手放せない理由。根っこの根っこまで丁寧に掘り下げることで、光が差す。

生きづらさ

昨日のこと。
放課後に、娘のお友達が遊びに来て、
おうちに送って、そのお母さんとちょっとお話して、
それで帰ってきたんだけれど、

信じられないくらいに
心と身体が疲れていた。

もう何もできない、ぐったり。

何か特別なことがあったわけではない。
その子もいい子だったし、
お母さんもいい方だった。

この疲れ具合は異常だと思って
内観してみた。

「本当の自分」バロメーター

内観してみた、というか、
しなければならないと思った。

私の中で、きっととんでもないことが起こっている、
そんな予感がした。

自分ではない自分でいるとき、
本当の自分と繋がっていないとき、
人は疲れるのだ。

神経系が緊張してこわばって
思考を無理に働かせて
めっちゃ空気読んで
がんばりまくっている状態。

逆を言うと、
本当の自分と繋がっていれば
緩んでいて、自然体。
自分が行きたい方に、軽やかに行ける。

だから、本当の自分でいるかどうか、
疲れ具合でみるといい。

※人によっては「無」になる人もいるので、
その疲れ具合はわからない…師匠に聞いてみよう

疲れの原因

あまりの疲れ具合に、
家族に時間をもらって、一人になった。

私が敏感に反応していたのが
おうちに送った時に
娘が無邪気に好き勝手しすぎて
お友だちのお母さんを困らせてないか、
迷惑じゃないか、
そこが一番気がかりだった。

まだそんなに親しくもなく、
迷惑だけど、迷惑だと言えないだろうから、
どこまで大丈夫なんだろうか。
これでいいのだろうか。
勝手に緊迫状態に陥っていた。

そこだな、見るのは。

教員時代の疲弊

この感じ、
教員時代もそうだったと思い出した。

保護者との関係性って一番難しくて。

いろんな人がいるし、
どんな考えをもっているかわかるほど話してないし、
「先生」という立場でいなければならないし、

とにかく、
何も問題が起きないように、
何も言われずに済むようにと、気を張っていた。

完璧であらねば
そこにエネルギーを注いでいた。

もちろん、それがすべてではないけれど、
教員としての私が疲弊していたのは
そこも大きかったんだろうなぁ。

完璧主義を育んだ教員時代

私は大丈夫か?
完璧か?
落ち度はないか?

10年以上にわたる教員生活で培って
私にとっての当たり前の習慣になってしまった。

今でも、
中途半端ではいけない、
整ってなければ出せない、
抜けがあってはならない、
という観念がある。

自分の完璧主義には気づいていたけれど、
なかなか手放せていない。

でも、それは、
根っこの根っこに気づいてなかったから、
だった。

この後、根っこの根っこまでいく。

完璧主義を生んだ子ども時代

でも、教員という
たくさんの保護者の目にさらされてる状況だったから
露呈しただけであって
子ども時代にきっかけがあるはず。

6歳ごろまでに負った傷が、
大人になってからの私の人生を不本意なものにする。
そう学んだ。

完璧でなければならない。
落ち度があってはならない。

 

・・・
あぁ、そうか。

 

ここで「非難」という言葉が浮かぶ。

非難:欠点やあやまちなどを責めとがめること。

 

私自身は、家族から非難されたことはない。
ゼロではないにしても、ほとんど記憶にない。

でも、私の母親が、
「非難」している言葉を、いつも聞いていた。

父親
父方の祖母
母方の祖母
近所の人
テレビの人

誰かのダメなところ、欠点を見つけては
それを責めとがめる。

幼い頃の私は、それを聞いて
異常事態、危機的状況と思っていた。
怖かった。

そこから学んだのは、

欠点やあやまちはあってはならない、
ということ。

欠点やあやまちがあれば、私の身は危険にさらされる、
ということ。

私の完璧主義の原点。

完璧主義のルーツ

そう考えると、
あれも、これも、どれも、
そこからきたものだったんだ、と納得。

私の人生で起こっていたいろいろ、
上手くいかなかったこと、
不本意で不自然なこと、
私の望むものは手に入らないんだ…
という悲しい諦めの気持ちも、
全部ぜんぶ納得がいく。

それを、
「完璧主義だからだよ」
と言われても、
確かにそうなんだけど、
それって多くの人に当てはまるものでしかなくて。

私のルーツに繋がることで、
ものすごい重みになる。
私の人生を、貫いているものに出会えた感覚。

完璧主義のルーツは、
一人一人違う。

それを抱えて、小さい子どもの私は生きてきた。
そのがんばり一つ一つが私の人生をつくってきた。
うまくいかないこともたくさんあったけど、
私は精一杯がんばってきた。(涙)

私は私を称える。
よくやってきたねーーー!!

これでやっと手放せる

欠点があってもいい。
抜けがあってもいい。

やっとこの言葉が、私の中に染みる。

大人になった今、
そのことで、危機的状況になることはない。
あやまちは正せばいいし、
欠点も補うことができる。

ちょっとやそっとのことで、非難されることはない。
もし、非難されたら、そのときに考えよう。
私は考えることができる。

完璧にしようと、自動スイッチが入ってしまうけど、
それに気づいて、一つずつ、改善していこう。

完璧にするより、したいことがあるはず。
私は何がしたいのか。
何を目指しているのか。
それを叶えるためにエネルギーを使おう。

ここがスタート。
手放す準備ができた。

ひとまずの、まとめ

お友達のお母さんと関わったときに、
私は完璧であろうとしていた。
欠点があってはならない。
これで大丈夫だろうか。
そこに集中してしまっていた。

ただ私は、
子どもたちが楽しめるように、
でもお互いに迷惑にならないように、
そう願っていただけ。

もっとフラットに、
どうしたらいいでしょうかねーーって
言えればよかった。

大丈夫だ。
もう言えそうだ。

全体の、まとめ

非難されたくないから
できるだけ抜けがないように。

これって、みんな大なり小なり持ってるもの。

だから、人と比べることはないし、
自分にとってどれだけの重みがあるものかって
なかなかわかりようがない。

自分にとって当たり前にあるものって
自覚することがない。

でも、どの感情も、不具合も、
必ずルーツがある。

「その感情は手放しなさい」

そう言われても手放せないのは、
本当に痛かったもの、怖かったもの、
本当に欲しかったものに
まだ気づけていないからじゃないかな。

私のたくさんの経験の一個、
砂浜にある砂粒一個を
拾い上げるようなものなのかもしれない。

そこを丁寧に丁寧に見てあげる必要がある。

その丁寧な作業は
本当に自分の望む人生をつくる力になっていく。

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