いやー、
自分のことって
本当に全然わかってない。
私なんて
自己分析、自己理解、
って言葉多用して
偉そうにいつも語ってて
今また分厚い自己認識の本読んで
勉強してるつもりなんだけど
今読んでる自己認識の本。めちゃくちゃ面白い。
自己理解と言えば八木さん。最優秀賞に選んでもらった書評です。
なのに、
自分のこと見誤ってた。
本当の自分はこっちだったのかーー!!
驚きと悔しさと
そしてやっぱり自己を理解することって
ちょー気持ちいいーーー
気持ちよすぎて涙が出た。
こっちの自分で生きていいのね
ほんとはそっちがフィットしてたのね
ほんの少しのズレで私は縛られて
それが苦しかったのねって気づくことができて
心がほわ~って解きほぐされて
…安心の涙が。
自分に向き合い続けて
自己を理解して進んでいたはずの私が
また1枚皮をむいて
本来の自分に近づいて
楽になった話。
後半はかなりマニアックで
共感されないだろうな…
と思いつつ
でも、書きたいから、書く。笑
自己探究マニアな私
教員時代に学校に行けなくなって
人生の路頭に迷ってからというもの
自分って何なのだろう
何をするために生きてるんだろう って
ずーっと考えて
自分や人生に向き合ってきた私
人よりも自己理解はかなり進んでると自負してた。
それでも
これって本当の私?
本当にやりたいこと?
なんかズレてない?
違和感あるよね?
ピタッとくる自分や人生に
辿り着けてない感がある。
俯瞰してマクロで見ればピッタリ
でもミクロで見ると1mmズレてる!
みたいなことかもしれないけど
そういうのが気になる気質なのかもしれないけど
でも
そういうジャストな自分が必ずいると信じて
そしたらもっと楽に、もっと楽しくなれて
自分もハッピーで
周りにもたくさんのハッピーを与えられる人になれる
それが
ちょっと違和感やモヤモヤを抱えてる人の
勇気や希望になればもっと嬉しいし
そんな想いがあって書いています。
そんな想いで生きています。
そういう意味ではピッタリな生き方できてるのかな?
慎重な人だった
そんな私のこれまで。
どん底に落ちる前
いわゆる普通に生きてた頃は
それなりに仕事も人付き合いもできて
器用とか要領がいいとかじゃないけど
努力で何とかカバーできてしまってた。
やる気も情熱もある方だったけど
仕事が増えれば増えるほど余裕はなくなる。
期待されてること、与えられたことを
とにかくやらなきゃ、こなさなきゃ。
失敗しないように
落ち度がないように
慎重に計画を立てて時間をかけて
っていう人だった。
無茶しない、余計なことしない。
そうやって何とか保ってた。
でも1人になると
……どわーーつかれたーー
久しぶりにちゃんと息できたーみたいな
ちょっと解放される感じがあって
つまり
少なからず違和感はあった。
心や身体はサインを出してた。
教員っていう立場がまた
キツさを助長してたのかもしれないけれど
それが積み重なって
初めての育児も重なって
抱えきれなくなって
ずどーーーーーんと底に落ちた。
これが本当の自分を探す旅に出るきっかけに。
行動する人になった
そこから紆余曲折、2年ほどかけて
今のガンガン進むスタイルに至った。
努力して人間関係つくってきたけど
本当は人とうわべの付き合いしかできない
コミュニケーション能力も低い
言いたいこと言えない
合わせるのに疲れる
慎重に考えて
練りに練ってから行動して
余計なことはなるべくしない
人に頼らない迷惑かけないで
できるだけ自分で完結する
だった私が
今や
人を集め人と繋がる仕事して
みんなで語り合うのが好き
大好きな人を応援するのが生き甲斐
SNSやブログで考えを発信して
正しい正しくないよりも
失敗や迷惑を考えるよりも
そのときの想いを大事にして
自分を信じて
インスタライブもしたし
イベント企画運営
どんどん人脈広げてやることも広げる
できないことは人にお願いして
仲間と共に作り上げる
そうやって
新しいことを次々取り入れて
とにかくやる、行動にうつす
それが、本来の私だったのね…
そこから広がる知識や世界で
自分は満たされるし
エネルギッシュな私から
いろんなことを感じて受け取ってくれる
応援者であり仲間が増えて
みんなで一緒に幸せになっていく快感
自分らしく生きるって
こういうことなのね。
私は、本当は行動する人だったんだ。
行動の源は○○だった
でもね、
疲れているのも否めない。
そりゃあ行動したら疲れるよね。
誰かのためにって
必死になってやって
それでみんなが喜んでくれる
それが私なんだから
それが使命なんだから
…でも、疲れるんだよねぇ。
そんな私の話を聞いて
友人が『四魂の窓』の画像を見せてくれた。
「kazukiさんの【勇】(行動)は
【愛】のエネルギーが元になってるんじゃない?」
私は自分や状況を分析して戦略たてる【智】と
何かを達成するために行動する【勇】が
強いって、少し前にこの図を見た時に思った。
何か達成するために
考えて行動することが私の役割で
それを求められてる
私は【智】と【勇】の人
そう自己理解してた。
でも、ここにきて
【愛】 ???
今までの出来事が
走馬灯のように頭の中駆け巡り
これまでの私
今の私
統合すると…
【愛】…
【愛】……
【愛】 !!!!!
まさかの展開。
でも、しっくりきた。
私は【愛】の人だった!!
悩みの種は、たいていが「思い込み」
まず
【愛】だからいいとか
【勇】だからいいとか
そういうのはなくて
例えば
【親】の人である夫は
【勇】の人を見ると自分もそう在りたいと
憧れを抱き、自分に不足感を感じてしまう
【勇】だと思ってた私は
【愛】が欠けた自分を
なかなか受容できずに自己否定する
自己否定ほど無駄なものはない。
決して、人と比べ自分を卑下するものではなく
自分の特質を知るツールだということを
まず理解しよう
で、
私は『四魂の窓』のおかげで
自己理解を誤っていたこと
本来の自分を発揮できてないことに気づいた。
【愛】の認識と
【勇】の使い方を
ちょっと間違っていたのだ。
自分は【愛】が欠けてるヤツだと
無意識に否定してるから
これまた無意識に【愛】を補おうとしてしまう
みんなのために行動する
すべての人の幸せを願う
そう在るべきだと思い込んで
気乗りのしないオファーも
あなたのためになるならと
受けてしまうことがけっこうあって
つまり「断れない」自分だったから
疲れてしまってた。
でもやっぱり
やってること言ってることは一貫して
「あの人を助けたいんだよね」
「どうにかしてあげたい」
それに友人が気づいてくれ
教えてくれた。
確実に【愛】が【勇】の原動力になってる。
実は【愛】が強い人は
好き嫌いもはっきりしてて
「好きかどうか」が重要らしい。
うん、私、好きな人のために動きたい!
え、好きな人のためでいいの!?
え、好きな人のためで!?
えーーーーー
驚いて
そして
涙が溢れ出した。
私無理してたんだ、がんばってたんだ。
がんばりすぎて
ほんとの私の【愛】を置き去りにしてたんだ。
もう泣くしかない。
情けないのと
悔しいのと
安心したのと
好き嫌いで判断しちゃいけないって
子どもの頃からそう教わって
何に対しても平等が素晴らしいって
思い込んでいて
もちろん素晴らしいことなんだけど
その「平等であらねば」が
私を縛り、私を前へ進まなくさせていた。
「平等であらねば」を解除したら
もっともっと私らしくいられる
思いっきり能力を発揮できる
だとしたら、
好き嫌いがはっきりしていていいじゃない。
それが【愛】なんだから
開き直りともとられるかもしれないけど
思い込みを外すことで
自由になれる気がした。
私なりの【愛】でいいのね。
その安心感からの涙だった。
まとめ
【愛】なんて
たいそうなものを持ってなんか
ないない、私。
そうやって、
無意識下で自分を卑下していた。
自分に自信がなかったんだ。
それゆえ
【愛】のある人を演じて
ちょっとばかしがんばって
結局イライラしたり落ち込んだり
疲れて何も手につかなかったり。
元も子もないわ。まじで。
でも人生なんてこんなことの繰り返し。
挑戦して失敗して感情揺さぶられて
でもそのことでホントの自分に気づく。
気づいて楽になって
またがんばろーって思える。
自分が愛おしいわ。笑
まとめのまとめ
常識とか
普通とか
当たり前とか
親も先生も社会も
良かれと思ってそれを教えてくれる。
でも、
それが押し付けになってしまい
その人のその人らしさを抑え込んでしまう。
押し付けが終わったとしても
三つ子の魂百までじゃないけど
自分で自分を決め付け押し付け抑え込む。
そう、これって誰も悪くないの。
だからこそ厄介な話。
でも気づいた瞬間から変われる。
ホントの自分に近づける。
もっと楽になれる。
もっと楽しくできる。
もっと自分が好きになる。
もっと誰かを幸せにする存在になれる。
そんな人を増やしたーい!!
一緒に自己探究マニアになりませんか?
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